弘化3年(1846)大天守に落雷し、板張りの天守が燃えるという事故が起こりました。
藩では初代頼宣以来、江戸城天守のような白亜の5層天守建造を夢見てきましたので、この時、再建するにあたっては5層の天守を計画しました。
この頃、幕府は「一国一城令」を発し、大名の城普請はもちろん城壁の塗り替えも許可制にしていました。
現に幕府直轄の江戸、駿府、大坂の各城でも焼失後の再建を見合わせていたのです。
落雷焼失の和歌山城天守再建も容易なことではありませんでしたが、幕府では特別に認めました。
この時の十代治宝は、3層天守を計画する傍らで5層天守も計画し、ひな型まで作らせました。
その5層天守は規模こそ縮小していましたが白亜の江戸城天守と外観はほとんど同じでした。結局、焼失天守を白亜にした形式で再建許可を得たのです。
白亜の天守は徳川家のシンボルでもありましたから、藩にとってみれば、ようやく徳川の天守が建立出来、名実ともに御三家の象徴となったわけです。
この天守は昭和20年(1945)の戦災で焼失しましたが、同33年に外観復元されて今日に至っています。