じょうかのまちなみ

 城の北方は、その東を流れていた小川を浅野幸長が拡張し、徳川頼宣が内川に土手を高く築いてその上に竹を植えていました。これを「真田堀」といいます。
この北端が「嘉家作り」にあたり、本町門(北大手門)がありました。
 この地区は、中心に鷺ノ森の大御堂があり、内町の御用商人や工匠の町家と幹部級の侍屋敷を並べ、有事の折にはここで防戦できる体制が確立され、その東方の田中に鉄砲鋳造場と煙硝調合所もありました。
 城下町の南方は、南北に延びる大砂丘(岡山)で、その西麓に桁行33間の弓道場、そして南に多くの寺院を集めました(寺町)。
城に近いところには老臣や学者、医者など側近の侍屋敷を置き、弁財天山(岡公園)の東に東・西両町奉行所、牢屋など行政担当の侍屋敷が建てられていました。
 紀ノ川に面した西側は、重臣の下屋敷と徒士侍百人の屋敷(徒士町)や勘定長屋などが並んでいました。
しかし、今日ではそれらの面影はほとんど消え、残る姿を見ることは出来ません。
 今でこそ市内から天守が見えにくくなりましたが、当時は城下町の各所から天守が望めたでしょう。
城下町から望む天守はそれぞれに形を変えて見えたはずです。
 大天守だけが見える独立式(三年坂付近)、小天守とくっついて見える複合式(一の橋付近)、大天守と小天守が多聞で結ばれた連結式(二の丸付近)、そして、本来の形である連立式は北西から西側に(市役所付近から真砂丁にかけて)見ることが出来るのは今も昔も変わりません。