明治2年(1869)6月、14代藩主徳川茂承は、紀州の版籍を朝廷に返納しました。
以後、和歌山城は国有財産に編入され、明治新政府の兵部省(のち陸軍省)の所管となり、同6年、新政府は全国183城の内39城を残して破却を決めました。
和歌山城も二の丸、三の丸の堀を埋め、建物も石垣付きで民間に払い下げることとなりました。その中で旧本丸御殿の台所が市内大垣内の光恩寺庫裡として移築されました。
大正12年には、本丸御殿跡に上水道の貯水池が造られたため、中庭にあった「七福の庭」は松の丸跡に移され、新裏坂もこの頃つくられたと思われます。
昭和に入って文部省から史跡に指定され、以後は旧状の姿へと徐々に復元されていきました。
昭和33年には天守群が鉄筋コンクリートで外観復元され、そのあと岡口門解体修理(同35年)、紅葉渓庭園復元(同48年)、一の橋大手門復元(同53年)、追廻門解体修理(同63年)と昔の姿に戻されています。