和歌山城は、戦国時代末期の天正13年(1585)3月、紀州を攻めて平定した羽柴(のち豊臣)秀吉が、藤堂高虎らに命じて自らの縄張りで築城したと伝えられています。その後、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で勝利を得た徳川家康は、浅野幸長を和歌山城主として甲斐国(山梨県)から入城させました。幸長は、石垣の積み替えや城郭の拡張を始め、天守や城門、櫓の建設を行い、今に残る和歌山城の基を作り上げました。
 元和5年(1619)、幸長に変わって徳川家康の十子頼宣が55万5千石の地領で和歌山城へ入城。以来幕末の第14代藩主茂承までのおよそ250年にわたって紀州藩主としておさめ、和歌山城がその藩政の中心となりました。虎伏山頂に城が築かれた以後、麓の平地へ拡張されていきました。築城当初は、山頂部分に本丸、二の丸があり、浅野時代になって麓に「御蔵の丸」「御屋敷」「御数寄屋」などが造られました。「梯郭式」と呼ばれる構造でしたが、徳川時代には「二の丸」を北麓の平地に移し、その跡に「本丸御殿」を建てました。さらに南麓に「南の丸」、御数寄屋の地に「西の丸」を置き、大手門から北の京橋口に、重臣屋敷を集めた「三の丸」を置きました。
 現在の和歌山城は、内堀で囲まれた内部の天守曲輪、本丸跡の虎伏山、その麓の二の丸、砂の丸、南の丸などの石垣が残されていますが、それは、当時の4分の1の区域です。

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